韓国歴史ドラマ三国時代と地図で紐解く壮大な物語
「クリック」でわかりやすい韓国歴史時代別地図と年表
古朝鮮時代から朝鮮王朝まで、韓国の歴史は実に波乱に富んでいます。
韓国の歴史ドラマを見る際に、この歴史の流れを押さえておくと、物語の展開がより分かりやすくなると思います。
先史時代から現代まで、韓国の歴史を地図を見ながら分かりやすく整理してみましょう。
クリックすると地図が見れます。
画像下のボタンをクリックすると韓国の歴史地図を見ることができます。
現代と比較して見てみると面白いと思います。
扶余国の地図・テソ王と扶余王家の系図
古扶余
地図を見ると、扶余が2つの位置にあるのが分かると思います。
実は、韓国歴史ドラマ「朱蒙」や「風の国」に登場する扶余国(古扶余)と、百済の都があった現在の扶余(泗沘)は全く別の場所なんです。
古扶余は現在の中国東北部(中国吉林省)に位置し、高句麗の北に存在した国でした。
扶余は、現在の吉林省吉林市に扶余王城がありましたが、後期の都は農安(現在の吉林省長春市農安県)に置きました。
農安では、穀物が豊かで余るほどの収穫があったそうです。
この地は元々、濊貊(わいばく)の地域で、その古い都城は濊城と呼ばれていました。
扶余は、最盛期には東西南北に広大な領土を持っていました。
現在の扶余
一方、百済の泗沘は現在の韓国・扶余郡にあたります。
同じ「扶余」という名前でも、場所も時代も全く異なるので、歴史ドラマを楽しむ際は混同しないようにしましょう。
扶余王家
扶余王家の複雑な人間関係は、多くのドラマのモチーフとなっています。
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※三国史記
※画像はイメージです。
テソ王は東扶余の第3代王として知られています。
テソ王の統治期は激動の時代で、「チュモン」や「風の国」など、多くの歴史ドラマでも重要な時代として描かれています。
テソ王は紀元前58年から紀元前20年まで在位し、扶余国の黄金期を築いた王として知られています。
テソ王の時代、扶余は漢との関係を巧みに保ちながら、独自の発展を遂げました。
テソ王の治世は扶余国の転換期でした。
彼は積極的な外交政策を展開し、周辺諸国との関係を安定させることに成功。
最終的に扶余は494年に高句麗に併合されましたが、それまでの間、東アジアの重要な勢力として存在し続けたことが分かります。
北扶余 ※伝説時代
漢字表記 | 読み方 |
---|---|
解慕漱 | ヘモス |
↓ | |
慕漱離 | モスリ |
↓ | |
高奚斯 | コヘサ |
↓ | |
高于娄 | コウル |
↓ | |
高豆莫 | コドマク |
↓ | |
高无胥 | コムス |
後扶余※『後漢書』『三国志』記載
漢字表記 | 読み方 |
---|---|
夫台王 | プテ王 |
↓ | |
尉仇台王 | ウィグテ王 |
↓ | |
簡位居王 | カンウィゴ王 |
↓ | |
麻余王 | マヨ王 |
↓ | |
依虑王 | ウィリョ王 |
↓ | |
依罗王 | ウィラ王 |
↓ | |
余玄王 | ヨヒョン王 |
このような歴史的背景を知っていると、ドラマでの政治的な駆け引きや人物たちの苦悩がより深く理解できますね。
特に「朱蒙」などのドラマでは、扶余と高句麗の関係性が重要な要素として描かれています。
当時の政治体制や王位継承を巡る争い、そして扶余と高句麗の複雑な関係性は、多くの歴史ドラマで印象的に描かれています。
ドラマを見る際は、ぜひこうした実際の歴史も意識してみてください。
フィクションとして脚色されている部分も多いですが、歴史との比較を楽しむことで、より深い視点でドラマを楽しむことができます。
高句麗の歴代王・扶余のチュモン~ドラマで描かれる英雄たち
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古代朝鮮半島を代表する王朝、高句麗。
その705年の歴史の中で、28人の王たちが統治を行いました。
高句麗の始祖として知られる東明聖王(チュモン)は、扶余の王子として生まれました。
しかし、政治的な迫害を受け、紀元前37年に南下。
卒本城(現在の五女山城)で高句麗を建国しました。
チュモンの建国物語は、数々のドラマや小説で描かれてきました。
その人気の理由は、逆境を乗り越えて新たな国を築いた英雄としての姿にあるでしょう。
特に、弓術の名手として描かれる姿は、多くの人々の心をとらえています。
チュモンの長男である琉璃明王は、高句麗の文化的基盤を確立した王として評価されています。
東明聖王(朱蒙)→ 琉璃王 → 大武神王(無恤)
紀元前19年から西暦18年までの長期政権の間、国内の統治体制を整備し、周辺国との外交関係も構築しました。
都城システム
高句麗の歴史を語る上で欠かせないのが、丸都城(現在の中国吉林省集安市)の存在です。
行政・経済の中心は、平地に築かれた平地城(国内城)、防御施設・有事の避難所のため山上に築かれた山城(丸都城)は、国内城の衛城(守りの城)として機能しました。
険しい山の地形を活かした要塞都市として築かれた丸都城は、その後の高句麗の発展を支える重要な基盤となりました。
しかし、魏の度重なる攻撃により、丸都城は幾度となく蹂躙され、その攻撃による被害は壊滅的なものでした。
しかし、高句麗は不屈の精神でこれを乗り越え、丸都城を再建。
より強固な山城として生まれ変わった丸都城は、後の広開土王の時代における高句麗全盛期の礎となったのです。
現在は、中国吉林省集安市に遺跡として残っており、2004年にユネスコ世界遺産「高句麗の都城と古墳群」の一部として登録されています。
391年から412年まで在位した広開土王(好太王)は、高句麗最大の版図を築いた王として知られています。
その治世下で、高句麗は朝鮮半島の約半分から中国東北部にまで及ぶ大帝国となりました。
広開土王の功績を伝える「好太王碑」は、現在も中国吉林省に残されています。
1800字を超える碑文には、彼の軍事的成功や政治的業績が詳しく記されており、考古学的にも貴重な史料となっています。
広開土王の子である長寿王は、412年から491年という驚異的な長期政権を誇りました。
長寿王の最大の功績は、427年に平壤への遷都を実現したことです。
この決断により、高句麗は半島南部への進出を本格化させることができました。
最後の王・宝蔵王
高句麗最後の王となった宝蔵王は、642年から668年まで在位しました。
唐との戦いや新羅との関係悪化など、困難な時期に王位についた彼は、最後まで国の存続のために奮闘しました。
高句麗の歴代王たちは、それぞれの時代で様々な課題に直面しながら、国家の発展に尽力しました。
彼らの物語は、現代のドラマや小説でも繰り返し取り上げられ、多くの人々の心に残り続けています。
特に東明聖王(チュモン)の建国物語は、困難に立ち向かう勇気と決断力を示す象徴として、今なお人々に感動を与えています。
高句麗の歴史は、単なる過去の出来事ではなく、現代に生きる私たちにも多くの示唆を与えてくれるのです。
高句麗の歴代王たちの物語は、多くのドラマで感動的に描かれています。実在の王たちの人生と、ドラマでの描かれ方を比較するのも面白いですね。
次序 | 諡号 | 在位期間 |
---|---|---|
1 | とうめいせいおう 東明聖王 こうしゅもう (高朱蒙) |
紀元前37年 – 紀元前19年 |
2 | るりめいおう 琉璃明王 |
紀元前19年 – 18年 |
3 | だいぶしんおう 大武神王 |
18年 – 44年 |
4 | みんちゅうおう 閔中王 |
44年 – 48年 |
5 | ぼほんおう 慕本王 |
48年 – 53年 |
6 | たいそおう 太祖王 |
53年 – 146年 |
7 | じだいおう 次大王 |
146年 – 165年 |
8 | しんだいおう 新大王 |
165年 – 179年 |
次序 | 諡号 | 在位期間 |
---|---|---|
9 | ここくせんおう 故国川王 |
179年 – 197年 |
10 | さんじょうおう 山上王 |
197年 – 227年 |
11 | とうせんおう 東川王 |
227年 – 248年 |
12 | ちゅうせんおう 中川王 |
248年 – 270年 |
13 | せいせんおう 西川王 |
270年 – 292年 |
14 | ほうじょうおう 烽上王 |
292年 – 300年 |
15 | びせんおう 美川王 |
300年 – 331年 |
16 | ここくげんおう 故国原王 |
331年 – 371年 |
17 | しょうじゅりんおう 小獣林王 |
371年 – 384年 |
18 | ここくじょうおう 故国壌王 |
384年 – 391年 |
19 | こうかいどおう 広開土王 こうたいおう (好太王) |
391年 – 412年 |
次序 | 諡号 | 在位期間 |
---|---|---|
20 | ちょうじゅおう 長寿王 |
412年 – 491年 |
21 | ぶんしめいおう 文咨明王 |
491年 – 519年 |
22 | あんぞうおう 安蔵王 |
519年 – 531年 |
23 | あんげんおう 安原王 |
531年 – 545年 |
24 | ようげんおう 陽原王 |
545年 – 559年 |
25 | へいげんおう 平原王 |
559年 – 590年 |
26 | えいようおう 嬰陽王 |
590年 – 618年 |
27 | えいりゅうおう 栄留王 |
618年 – 642年 |
28 | ほうぞうおう 宝蔵王 |
642年 – 668年 |
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韓国歴史ドラマの時代設定と世界遺産の地図
人気の歴史ドラマは主に朝鮮王朝時代を舞台にしているものが多いんですが、三国時代(高句麗・百済・新羅)についても数々の名作があります。
例えば「太王四神記」は高句麗時代、「善徳女王」は新羅時代が舞台。
それぞれの時代背景を知ることで、登場人物の行動や心情がより深く理解できます。
慶州の仏国寺や水原華城など、世界遺産に登録された史跡の多くが歴史ドラマの舞台となっています。実際に訪れることで、ドラマの世界観をより深く体験できます。
慶州は、新羅の首都金城があった場所です。上の地図で確認してみてください。
百済は現在のどこ?歴史ドラマの舞台を地図で確認-扶余と百済王国の栄光
百済は現在の韓国・忠清南道を中心とした地域に位置していました。
ソウルから南西に位置する公州市や扶余郡がかつての百済の中心地です。
実は百済の都は時代によって3回も移り変わっているんです。
最初の都である漢城(現在のソウル)は、475年まで都として栄えました。
その後、高句麗の攻撃により、熊津(現在の公州市)へ遷都。
そして538年には、より南に位置する泗沘(現在の扶余郡)へ都を移しています。
漢城(ハンソン)
現在のソウル特別市付近
百済建国から約500年間の首都
熊津(ゆうしん)
現在の忠清南道公州市
高句麗の攻撃により漢城が陥落し、南遷
泗沘(さひ)
現在の忠清南道扶余郡
百済最後の首都、この時期に百済文化が最も発展
扶余は、多くの歴史ドラマのロケ地としても使われていて、白馬江(ペクマガン)沿いには、当時の王宮があった扶蘇山城や、美しい定林寺址など、百済の面影を今に伝える史跡が数多く残されています。
ドラマ「百済の王」や「根の深い木」などでも、この地域が重要な舞台となっています。
実際に地図で位置関係を確認すると、百済が中国や倭国(日本)との交易に有利な場所に位置していたことがよく分かりますよ。
当時の海上交通の要所だった西海岸にも近く、文化交流の中心地として発展した理由も納得できます。
百済の文化は、仏教文化や建築技術など、多くの面で日本に大きな影響を与えました。
法隆寺の建築様式が百済様式を伝えているように、現代に残る文化財からも、その足跡をたどることができるんです。
韓国歴史ドラマと地図で深まる歴史理解 まとめ
古韓国の歴史地図を片手に歴史ドラマを楽しむことで、物語の深い魅力を存分に味わうことができます。
地図を通して各王朝の変遷を理解することは、ドラマの舞台背景や登場人物たちの行動をより深く理解する鍵となります。
特に三国時代を舞台とした歴史ドラマでは、高句麗・百済・新羅それぞれの領土の変遷が重要な意味を持ちます。
例えば、百済の都が漢城から熊津、そして泗沘へと移り変わっていった歴史的背景は、当時の政治的緊張や文化交流を理解する上で欠かせない要素です。
このような地理的変遷を意識しながらドラマを視聴することで、古代朝鮮半島における人々の暮らしや、各王朝の興亡をより立体的に理解することができます。
ぜひ地図と共に韓国歴史ドラマの世界を旅してみてください。
きっと新たな発見と感動が待っているはずです。